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(´・ω・`)であります。
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(´・ω・`)首相です。
ご無沙汰をしておりました。


皆様、日本国民の皆様。私は問いたい。
皆様におかれましては昨今の教育改革について、いかがお考えでありましょうか。


道徳の教育を行うやら、休みを減らすやら色々取り沙汰されておりますが私は申し上げたい。
まず名を正すべきではないのか、と。


ここで申し上げます「名」とは、子供たちのことではございません。
我々大人、いま現在社会を担っている我々のことであります。


例えばお考えください。
学校で徳育を学んだ少女たちが放課後、町へ出ます。
街には様々な誘惑がございますが最もたるもの。援助交際、つまり売春であります。
これは現在、確かに少女達がもちかけるケースもございましょうが、多くはエロジジイ、言葉が過ぎるならやや情欲の過ぎる大人の男性から持ちかけられるものであります。


このとき、少女は何を思うでありましょうか。


私ならこう思います。
「なーにが徳か、こんなくっさいオッサンどもに説教されたくねーよ」と。


皆様。冷静にお考えください。
今なすべきことは何なのかを。


そうです。
少年法の適用範囲をもっとせばめるべき、中学生以上は普通の刑法で裁くべきなのであります。(´・ω・`)




今、私が申し上げましたことに皆様、矛盾を感じたかもしれません。
しかし今からご説明いたしますことをお聞きくださいますれば、必ずやご理解いただけるでありましょう。


はっきり申し上げます。
大人を、社会をナメている子供には、矯正ではなく鉄槌を下すべきであります。
そして、その鉄槌はその子供の親にも下すべきであります。
なぜなら、子供がそのように育ったのは大部分、家庭こそに問題があるからであります。


「親の因果が子に報い」という言葉がございまが、これはよろしくない。
親が犯罪を犯したとて、それは子供に累を及ぼすべきではありませんしかし、逆はあってしかるべきなのであります。
否、この点において日本は、大人はこれまで、「個人主義」の悪用で逃れ続けてきたのであります。


日本国民の皆様。私は申し上げたい。
未成年の犯罪に対する親の連座制を今すぐ設けるべきであると。


物事に名をつけるのは子供ではない、我々大人であります。
であるなら、我々大人がまず正されなければならないのは道理なのであります。(´・ω・`)




そしてさらに申し上げます。
子供ではなく、今の大人にこそ徳育の教育をすべきであると。


ただ、これは実際のところ、実現は不可能でありましょう。
ですので私はここで、現在の教育改革をさらに改革する、より良いアイディアを申し上げたい。


定年後の老人を、子供たちと同じ学校に編入し学ぶようにすべきであります。
老人も子供も共に、同じ授業を受けるのです。


社会に出られた皆様ならきっと同意いただけると思いますが、学校の授業はむしろ社会人になると無性に受けたくなるものであります。しかし働いておりますと、これがなかなか難しい。
学校の授業を再び受ける、というのはある意味、大人の夢のようなものであります。


生涯学習という言葉もございますがならば、老人になってから再び学校へゆき学べばよろしい。
子供たちと同じ教室に入り、同じ授業を受け、同じ宿題をすればよろしい。
子供たちと同じようにはできないでしょう。子供たちと同じ成績を残すことは難しいでしょう。
しかし、それでいいと思うのであります。


なぜなら教育とは、知性を育むものでありますと同時に、人格を育むものでもあるからであります。
かつては社会へ出て働き、人々のために尽くしてきた老人たちが学校で共に学び、同じ問題でつまづき悩む姿を見て、子供たちは何かしら感じずにはいられないはずであります。


おそらく多くの老人たちは、こうおっしゃるでしょう。
「学ぶのが楽しい」と。「昔学んだことが蘇ってくるのが楽しい」と。


学校で学び、よい大学を出て給料のよい会社に入る。それも学問の重要な目的であります。
しかし我々は知っているのです、そういうの関係なしに、知識が増えてゆく楽しさというのもあるのだ、と。


今こそ我々は、それを子供に教えるべきなのであります。
そして老人たちは、それを子供に教えることができる唯一の存在なのであります。


皆様、日本国民の皆様。
私は申し上げたい。


我々の「教育」こそが、目下の急務なのであります。(´・ω・`)

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(´・ω・`)首相です。


皆様、日本国民の皆様。
既にご承知のこととは存じますが、韓国人による痛ましい事件が発生いたしました。
アメリカはヴァージニア州の大学における、韓国人留学生の銃乱射・虐殺事件であります。


アメリカの新聞には「大虐殺」という表現が用いられておりますが、これは全くもって正しい表現といえましょう。
聞き及ぶところによると、犠牲者たちのうちには一列に並べられて順繰りに撃ち殺された方々もいるとのことで、これを虐殺と言わずして何というのでありましょうか。


皆様、私は先に申し上げておりました。
偏見は心の防御機構であると。


私はこの事件を聞いて、正直に申し上げますと「なるほど」としか思わなかったのであります。
朝鮮民族の性向に合致しており、ははーありうることであるな、と。驚きはなく、至極冷静に事件を捉えることができたのであります。


私に関しまして言うならば、見事に防御機構が働いたわけであります。(´・ω・`)


その上で、偏見に合致した行動を起こしめた原因は何かという思いに至ったわけであります。


皆様、今私は重要なことを申し上げました。
偏見とは、要因に対する行動規律の傾向であります。
つまり、偏見に合致した行動とは原因ではなく、結果でございます。


とある逸話がございます。
あるTV番組で、「韓国人は気が短く怒りやすい」という発言をしたところ、TV局に「我々は怒りやすくない」という激昂した韓国人らしき人々からの苦情が何件も寄せられた、とのことです。
これなどは大変面白すぎるので、創作の話ではないのかと勘ぐるほどでありますが、これを題材に申し上げましょう。


朝鮮人への偏見の一つに「短気」というのがございます。
今申し上げました例はその典型的なものでございますが、これを「短気だからすぐ抗議する」と要因のように捉える方々は、まだ偏見をコントロールしきれていない。
「ある要因に対しては短気に反応する」と考えるべきなのであります。


この例で申し上げますと、朝鮮民族は自分たちを「怒りやすくない」と考えており、それを公で否定されると激昂する傾向がある、と考えうるのであります。
また、日本海呼称問題などをこれに併せて考えますと、朝鮮民族に対して持つべき偏見は、

 ・「私」にそぐわない「公」に対して、より直接的行動で反発する傾向がある

となるわけであります。


皆様、既にご承知とは存じますが今一度申し上げます。
今私が申し上げましたことは、杉林を俯瞰した場合の傾向ということでございます。すべての朝鮮民族に当てはまるのではないのは、再三申し上げている通りでございます。
まず偏見を前提にし、それとの相違を個々に見出す。これでこそ、偏見をコントロールしている、と言えるのであります。


件の事件では現時点は、どうやら男女間のもつれが原因ではないかという憶測がございました。
これなどは、私は多少眉唾で伺っておりました。
なぜなら、「韓国人は女性蔑視の傾向が強く、女性へ安易に暴力を振るう」という偏見があるからでございます。


男女間のもつれであるなら、犯人は当事者の女性へ暴力で応えることで終わっていたのではないのか。
無関係の大学生をも虐殺したとなると、また別の要因が考えられるのではないか。


今では、集団に溶け込めなかったのが最大の要因らしいと判明しておりますが、これなども私が申し上げたように、偏見を正しく認識していたことにより誤認を回避できたということであります。


さらに言うなら、件の虐殺についての韓国メディアの報道もまさに、偏見に合致したものでありました。
被害者たちへの哀悼よりもむしろ、この件により韓国人の肩身が狭くなるという危惧を吐露する報道が多かったのは、「韓国人は常に自分達が被害者であると考える」という偏見に合致しております。


ただしこれについては、韓国メディアは、という限定をすべきでありましょう。
わが国のメディアを鑑みれば、メディアが即ち国民の意識の代弁者ではないことは明らかだからであります。


日本国民の皆様。
偏見とは、的確に認識し活用すれば、かように役立つものなのであります。
おわかりいただけますでしょうか、これまでの「偏見を排除する」という発想がいかに誤ったものであるか。
偏見とは、排除するのではなく、活用すべきものなのであります。


私は、偏見の最大の理解者、(´・ω・`)首相であります。

(´・ω・`)首相です。


先日申し上げました、私なりの偏見に関する理論、いうなれば「杉林理論」とでも申せましょうか、これを習得いたしますと世の中がとても見通し良くなることを、本日は述べたいと思います。


例えば昨今の話題に「従軍慰安婦問題」というものがございます。
安倍君は「強制はなかった」と申しておりますが、杉林理論で見通せば強制は一部あっただろうということが容易に想像できます。


なぜなら、委託先の業者があの、あの悪辣な朝鮮人の業者であります。現在のキーセン国家の先祖たちであります。
加えて現在の日本の官僚の堕落ぶりを鑑みますと、当時の官僚、なかんずく軍部が強制を半ば容認していたであろうことは想像に難くない。
なにしろバシー海峡の悲劇を生み出した、あの軍部であります。強制を看過していた可能性は否定できない。そういう「偏見」を、私は旧日本軍部に対して抱いております。


おそらく、強制はあったのであります。
ただ、それが全てではない。一部であっただろう、ということであります。
おわかりでしょうか、杉林理論から敷衍すれば、この問題については「強制は大っぴらにはなかった、一部であった」と言うべきなのであります。


加えて申し上げるなら、慰安婦は軍にとって必要悪であり現在もそれが必要とされる場面があるということ、なかったがゆえのベトナムでの韓国軍の蛮行は未だ記憶に新しいということ。
さらにこの問題は、サンフランシスコ講和条約および日韓基本条約により解決済みの問題であります。
米国下院での決議は不勉強極まる、愚劣な、国際間の約束事を踏みにじるような行為であると私は思うのでありますが皆様はいかがでしょうか。


世の中は白と黒だけで成り立つものではありません。
杉林にも、雑多な植物が生息しているのであります。それを、どこで観察するか。これにより、見える風景は一変するのであります。
杉林にいるアリから見た風景は、ヘリコプターにて上空から観察する者のそれとは全く異なるでしょう。この時、アリが「ここはキノコだらけなのでキノコ林」と言ったとて何の説得力もありません。


つまり、偏見を把握するには、まず己の位置を知らなければならないのであります。
偏見は自己の再確認のきっかけともなるのであります。


皆様覚えておいででしょうか、自分探し、という言葉が一時期流行したことがございます。
私などはあれを鼻で笑っていたクチでありますが、偏見を知り、偏見を愛する者からすればあれは戯言の極みでありました。
島本和彦だったでありましょうか、

自分探しだと? お前はそこにいるだろうが!

という文句はまこと秀逸であります。


私は今、「偏見を愛する」と申し上げました。
そうです、偏見とは忌み嫌うべきものではなく、愛すべきものなのであります。
偏見を愛するということは、偏見を持つ自分自身を愛するということであり、さらには偏見を持つ他人をも許せるという心に繋がるのであります。
偏見はよくない、排除すべきであるなどと考えるからこそ、偏見を持つように見える他人もがよくない、排除してしまう。むしろ皆、偏見を持っていることこそが普通なのだと思えばよろしい。


人はみな、偏見まみれなのであります。
そして私は偏見の王者、(´・ω・`)首相であります。

(´・ω・`)首相です。


本日は、私の中にございます「偏見」について所信を述べたいと思います。


ありていに申し上げます。私は朝鮮人と中国人が大嫌いであります。
しかしさらに申し上げますと、私は朝鮮人や中国人と話をするときには嫌悪を微塵も出しません。


二面性と揶揄する向きもあるでしょう。
しかし私の中では、これは一貫した論理によるものでございます。


皆様、お考えになってください。
杉林の中に、松が一本生えていたとしましょう。これを松林と呼ぶのは愚の骨頂であることは皆様、容易にご理解いただけるかと存じます。
しかし、杉林の中にあるからといって、松を杉と呼ぶこともまた同様に、愚か極まることでございましょう。


杉林の中には、杉のみではなくいろいろな種が生息しております。
杉同士ですら細かな違いがある以上、個別に見るならまさに種々雑多な命を見出すことができましょう。
しかし、それを遠めに見るなら、やはりそれは「杉林」と総称すべきでありましょう。


私は、総体としての朝鮮民族・中華民族が大嫌いであります。
虫唾が走るとでも申しましょうか、朝鮮民族の排他性・非論理・自己愛や、中華民族の傲慢さ・プライド・計算高さがとても嫌いであります。


しかし、それが全ての彼ら民族の民に当てはまるわけではない。
ゆえに私は、個々と接する時はその「偏見」を取り去り、相手の底を見ようといたします。


「偏見はいけない」と思い込んでいる日本国民の皆様。
私は申し上げます、「偏見はいい」のであります。
総体としてのいろいろな国々の情勢・性向を把握しておき、「偏見」として頭に入れておくことはとても役に立つはずであります。
そうすれば、日本にいるノリで海外でも振る舞い、危険な目にあう国民も必ずや減るはずであります。


皆様、どうぞお考えください。
日本ほど教育の行き届いた民族はまだ世界に少ないのであります。
多くは教育が行きとどいておらず、ゆえに相手は異国人であるあなたを「偏見」で見ているのであります。


「偏見」とは、精神的な防具でもあります。
偏見を抱いた人間とは、言い換えるなら容易には崩し難い自我を有する人間とも言えるのであります。
偏見による精神的防御は、時に皆様を精神的被害から救い得るのであります。


偏見なき人間とは無防備な人間でもあります。
無防備な人間は容易に自我に傷を負いやすく、それが返って無用なほどの「偏見」の元になるのであります。
であるなら、最初から「偏見」で防御しておく方がどれほどよろしいか。


私は思うのであります。
これまでの教育による「偏見の排除」は、人々を丸裸にするだけでありました。
丸裸になり、当たり前ながら傷ついた人々にもさらに「偏見は良くない」とゴリ押しをして、それが逆に異常なほどの攻撃性の顕在化をもたらしたのではないかと思うのであります。


私はここに提案したい。
そうではなく、これからは「偏見を利用する」という教育を行うべきであると。
己の中にある「偏見」を明確に認識し、自在に操るような教育を行うべきであると。


それでこそ我々は、真に「偏見からの脱却」を図ることができるのであります。


そして私は、それを率先して行っている開拓者なのであります。(´・ω・`)
(´・ω・`)首相です。


今、日本国民の皆様の間で、教育に対する不満や疑問が湧き上がっていることを、私は認識しております。


私が現在の教育に疑問を抱いたのは十年ちかく昔、広島は世羅高校の修学旅行でおきた出来事の記事がきっかけであります。
修学旅行先の韓国で、生徒たちが韓国の人々に土下座をしたというのであります。


わが国と韓国の間の問題は多々あります。
それを鑑みたとしても、古今東西、生徒に集団で土下座をさせる教育というものが一体存在したでありましょうか。
私は、記事を読む我が目を疑ったものであります。


私は韓国の礼儀というものについて寡聞ではありますが、古来韓国では中国からの死者を土下座でもって迎えたそうですから、日本とさほど土下座の意味合いが異なるとは思いがたい。
過去どうであるにせよ、当事者でない、ゆえに過去のことでそしりを受ける謂れのない、前途ある若者たちが土下座をするという事態に、私は日本の教育というものが何か間違ってしまっていると感じられたのであります。


昨今話題にのぼることですが、愛国心教育、というものがございます。
ここで問題になるのは、「愛国心とは何か」だと思われます。


風土や人々を愛する心だとか色々言われますが、恐縮ながら私はこれに確固たる一言を持っております。
愛国心とは、自分が使う言葉を愛する心、であります。
ここは日本国でありますので、つまり日本での愛国心とは、日本語を愛する心であると断言いたします。


最も根源たる部分とは、今まさに私が語っております日本語、これを愛せるか否か、という問題であります。


皆様、どうぞお考えになってください。
もし突然、あなた以外がみな知らない言葉を喋りはじめたら。
日本語が誰にも通じないし、誰が何を言っているのかもさっぱりわからない。


そういう「日本」を、はたして愛せるでありましょうか。(´・ω・`)


それでもしばらく過ごせば、なんとかコミュニケーションをとることができるようになるでしょう。
身振り手振りにより、あなたの意図や相手の意図がうっすらと理解できるようになるでしょう。
しかし、日本語が通じた頃よりは恐ろしいほどに不便であります。


日本語が懐かしいと思うでしょう。恋しいと感じることでしょう。


つまり愛国心とは、さらに突き詰めるなら「容易に意思疎通のできる事を愛する心」であります。
コミュニケーションこそが、愛国心の源なのであります。


ネット右翼、という言葉がございます。
ネットワーク上でさかんに自国を賛美し、他国を貶す人々の総称でありますが、ちなみに前述の骨子を当てはめてみると、これは至極当然の現象であるわけであります。


これまで日本では、昭和の敗戦以前における全体主義のアンチテーゼとしての個人主義という信仰が、世間に蔓延しておりました。
これはすなわち、必要以上のコミュニケーションを取らない、という解釈をされ、やがてコミュニケーションを拒否するという妄信へと変遷しました。


それが隣人との断絶を生み、隣人のことがわからない、隣人の考えがわからないという状況が出現しました。
変わって「隣人」はTVの中のタレントやネット上の見も知らぬ他人になりました。


ビジネスや行政では、まだ誰も知らないような英単語をいかに先取りするかにしのぎを削っております。
初めてマニフェストという言葉をぽんと投げつけられ、ああ公約ねと即座に理解できた人が一体何人いたでありましょうか。


これなどは、実はコミューン形成の新しい一つの形であります。
女子高生のギャル語と本質的には何ら変わりません。(´・ω・`)


今の日本人は、コミューンに飢えているのです。
そしてそこに「愛国心」というキーワードを与えることで、コミューンを再構成しようとしているわけであります。


私はあえて皆様に問いただしたい。
状況は不可逆であります。旧来の「愛国心」が通じた時代ではもはやありません。
こういう状況の中で旧来の、いわば地域型の「愛国心」を唱えることに、何の意味がありますでしょうか。


そして提言したい。
今後のあるべき「愛国心」の姿とは、日本語が通じるコミューン全域を愛する心であるべきだ、と。


地域のみならず、ネット上の「日本語領域」ともいえる領域全てが「日本」であるという認識。
そして、その領域を愛し、育む心を育てること。
つまり、日本語の領域を広げるという野心。


小学校から英会話を教えるのであれば、同時に日本語の素晴らしさをも教え込む。
そして英語と日本語を比較し、どういう部分で日本語が優れているのか、それを子供達に認識してもらい、その素晴らしさを世界の人々に知ってもらうような努力を促す。


私が考える「愛国心教育」とは、そういう教育であるべきだと考えております。


私は覇権主義者であります。
素晴らしき日本語を世界に広め、伝えたいという野心に滾る、現代の覇王であります。(´・ω・`)
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