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(´・ω・`)首相です。
先日申し上げました、私なりの偏見に関する理論、いうなれば「杉林理論」とでも申せましょうか、これを習得いたしますと世の中がとても見通し良くなることを、本日は述べたいと思います。
例えば昨今の話題に「従軍慰安婦問題」というものがございます。
安倍君は「強制はなかった」と申しておりますが、杉林理論で見通せば強制は一部あっただろうということが容易に想像できます。
なぜなら、委託先の業者があの、あの悪辣な朝鮮人の業者であります。現在のキーセン国家の先祖たちであります。
加えて現在の日本の官僚の堕落ぶりを鑑みますと、当時の官僚、なかんずく軍部が強制を半ば容認していたであろうことは想像に難くない。
なにしろバシー海峡の悲劇を生み出した、あの軍部であります。強制を看過していた可能性は否定できない。そういう「偏見」を、私は旧日本軍部に対して抱いております。
おそらく、強制はあったのであります。
ただ、それが全てではない。一部であっただろう、ということであります。
おわかりでしょうか、杉林理論から敷衍すれば、この問題については「強制は大っぴらにはなかった、一部であった」と言うべきなのであります。
加えて申し上げるなら、慰安婦は軍にとって必要悪であり現在もそれが必要とされる場面があるということ、なかったがゆえのベトナムでの韓国軍の蛮行は未だ記憶に新しいということ。
さらにこの問題は、サンフランシスコ講和条約および日韓基本条約により解決済みの問題であります。
米国下院での決議は不勉強極まる、愚劣な、国際間の約束事を踏みにじるような行為であると私は思うのでありますが皆様はいかがでしょうか。
世の中は白と黒だけで成り立つものではありません。
杉林にも、雑多な植物が生息しているのであります。それを、どこで観察するか。これにより、見える風景は一変するのであります。
杉林にいるアリから見た風景は、ヘリコプターにて上空から観察する者のそれとは全く異なるでしょう。この時、アリが「ここはキノコだらけなのでキノコ林」と言ったとて何の説得力もありません。
つまり、偏見を把握するには、まず己の位置を知らなければならないのであります。
偏見は自己の再確認のきっかけともなるのであります。
皆様覚えておいででしょうか、自分探し、という言葉が一時期流行したことがございます。
私などはあれを鼻で笑っていたクチでありますが、偏見を知り、偏見を愛する者からすればあれは戯言の極みでありました。
島本和彦だったでありましょうか、
自分探しだと? お前はそこにいるだろうが!
という文句はまこと秀逸であります。
私は今、「偏見を愛する」と申し上げました。
そうです、偏見とは忌み嫌うべきものではなく、愛すべきものなのであります。
偏見を愛するということは、偏見を持つ自分自身を愛するということであり、さらには偏見を持つ他人をも許せるという心に繋がるのであります。
偏見はよくない、排除すべきであるなどと考えるからこそ、偏見を持つように見える他人もがよくない、排除してしまう。むしろ皆、偏見を持っていることこそが普通なのだと思えばよろしい。
人はみな、偏見まみれなのであります。
そして私は偏見の王者、(´・ω・`)首相であります。