(´・ω・`)であります。
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(´・ω・`)首相です。
皆様、日本国民の皆様。
既にご承知のこととは存じますが、韓国人による痛ましい事件が発生いたしました。
アメリカはヴァージニア州の大学における、韓国人留学生の銃乱射・虐殺事件であります。
アメリカの新聞には「大虐殺」という表現が用いられておりますが、これは全くもって正しい表現といえましょう。
聞き及ぶところによると、犠牲者たちのうちには一列に並べられて順繰りに撃ち殺された方々もいるとのことで、これを虐殺と言わずして何というのでありましょうか。
皆様、私は先に申し上げておりました。
偏見は心の防御機構であると。
私はこの事件を聞いて、正直に申し上げますと「なるほど」としか思わなかったのであります。
朝鮮民族の性向に合致しており、ははーありうることであるな、と。驚きはなく、至極冷静に事件を捉えることができたのであります。
私に関しまして言うならば、見事に防御機構が働いたわけであります。(´・ω・`)
その上で、偏見に合致した行動を起こしめた原因は何かという思いに至ったわけであります。
皆様、今私は重要なことを申し上げました。
偏見とは、要因に対する行動規律の傾向であります。
つまり、偏見に合致した行動とは原因ではなく、結果でございます。
とある逸話がございます。
あるTV番組で、「韓国人は気が短く怒りやすい」という発言をしたところ、TV局に「我々は怒りやすくない」という激昂した韓国人らしき人々からの苦情が何件も寄せられた、とのことです。
これなどは大変面白すぎるので、創作の話ではないのかと勘ぐるほどでありますが、これを題材に申し上げましょう。
朝鮮人への偏見の一つに「短気」というのがございます。
今申し上げました例はその典型的なものでございますが、これを「短気だからすぐ抗議する」と要因のように捉える方々は、まだ偏見をコントロールしきれていない。
「ある要因に対しては短気に反応する」と考えるべきなのであります。
この例で申し上げますと、朝鮮民族は自分たちを「怒りやすくない」と考えており、それを公で否定されると激昂する傾向がある、と考えうるのであります。
また、日本海呼称問題などをこれに併せて考えますと、朝鮮民族に対して持つべき偏見は、
・「私」にそぐわない「公」に対して、より直接的行動で反発する傾向がある
となるわけであります。
皆様、既にご承知とは存じますが今一度申し上げます。
今私が申し上げましたことは、杉林を俯瞰した場合の傾向ということでございます。すべての朝鮮民族に当てはまるのではないのは、再三申し上げている通りでございます。
まず偏見を前提にし、それとの相違を個々に見出す。これでこそ、偏見をコントロールしている、と言えるのであります。
件の事件では現時点は、どうやら男女間のもつれが原因ではないかという憶測がございました。
これなどは、私は多少眉唾で伺っておりました。
なぜなら、「韓国人は女性蔑視の傾向が強く、女性へ安易に暴力を振るう」という偏見があるからでございます。
男女間のもつれであるなら、犯人は当事者の女性へ暴力で応えることで終わっていたのではないのか。
無関係の大学生をも虐殺したとなると、また別の要因が考えられるのではないか。
今では、集団に溶け込めなかったのが最大の要因らしいと判明しておりますが、これなども私が申し上げたように、偏見を正しく認識していたことにより誤認を回避できたということであります。
さらに言うなら、件の虐殺についての韓国メディアの報道もまさに、偏見に合致したものでありました。
被害者たちへの哀悼よりもむしろ、この件により韓国人の肩身が狭くなるという危惧を吐露する報道が多かったのは、「韓国人は常に自分達が被害者であると考える」という偏見に合致しております。
ただしこれについては、韓国メディアは、という限定をすべきでありましょう。
わが国のメディアを鑑みれば、メディアが即ち国民の意識の代弁者ではないことは明らかだからであります。
日本国民の皆様。
偏見とは、的確に認識し活用すれば、かように役立つものなのであります。
おわかりいただけますでしょうか、これまでの「偏見を排除する」という発想がいかに誤ったものであるか。
偏見とは、排除するのではなく、活用すべきものなのであります。
私は、偏見の最大の理解者、(´・ω・`)首相であります。
皆様、日本国民の皆様。
既にご承知のこととは存じますが、韓国人による痛ましい事件が発生いたしました。
アメリカはヴァージニア州の大学における、韓国人留学生の銃乱射・虐殺事件であります。
アメリカの新聞には「大虐殺」という表現が用いられておりますが、これは全くもって正しい表現といえましょう。
聞き及ぶところによると、犠牲者たちのうちには一列に並べられて順繰りに撃ち殺された方々もいるとのことで、これを虐殺と言わずして何というのでありましょうか。
皆様、私は先に申し上げておりました。
偏見は心の防御機構であると。
私はこの事件を聞いて、正直に申し上げますと「なるほど」としか思わなかったのであります。
朝鮮民族の性向に合致しており、ははーありうることであるな、と。驚きはなく、至極冷静に事件を捉えることができたのであります。
私に関しまして言うならば、見事に防御機構が働いたわけであります。(´・ω・`)
その上で、偏見に合致した行動を起こしめた原因は何かという思いに至ったわけであります。
皆様、今私は重要なことを申し上げました。
偏見とは、要因に対する行動規律の傾向であります。
つまり、偏見に合致した行動とは原因ではなく、結果でございます。
とある逸話がございます。
あるTV番組で、「韓国人は気が短く怒りやすい」という発言をしたところ、TV局に「我々は怒りやすくない」という激昂した韓国人らしき人々からの苦情が何件も寄せられた、とのことです。
これなどは大変面白すぎるので、創作の話ではないのかと勘ぐるほどでありますが、これを題材に申し上げましょう。
朝鮮人への偏見の一つに「短気」というのがございます。
今申し上げました例はその典型的なものでございますが、これを「短気だからすぐ抗議する」と要因のように捉える方々は、まだ偏見をコントロールしきれていない。
「ある要因に対しては短気に反応する」と考えるべきなのであります。
この例で申し上げますと、朝鮮民族は自分たちを「怒りやすくない」と考えており、それを公で否定されると激昂する傾向がある、と考えうるのであります。
また、日本海呼称問題などをこれに併せて考えますと、朝鮮民族に対して持つべき偏見は、
・「私」にそぐわない「公」に対して、より直接的行動で反発する傾向がある
となるわけであります。
皆様、既にご承知とは存じますが今一度申し上げます。
今私が申し上げましたことは、杉林を俯瞰した場合の傾向ということでございます。すべての朝鮮民族に当てはまるのではないのは、再三申し上げている通りでございます。
まず偏見を前提にし、それとの相違を個々に見出す。これでこそ、偏見をコントロールしている、と言えるのであります。
件の事件では現時点は、どうやら男女間のもつれが原因ではないかという憶測がございました。
これなどは、私は多少眉唾で伺っておりました。
なぜなら、「韓国人は女性蔑視の傾向が強く、女性へ安易に暴力を振るう」という偏見があるからでございます。
男女間のもつれであるなら、犯人は当事者の女性へ暴力で応えることで終わっていたのではないのか。
無関係の大学生をも虐殺したとなると、また別の要因が考えられるのではないか。
今では、集団に溶け込めなかったのが最大の要因らしいと判明しておりますが、これなども私が申し上げたように、偏見を正しく認識していたことにより誤認を回避できたということであります。
さらに言うなら、件の虐殺についての韓国メディアの報道もまさに、偏見に合致したものでありました。
被害者たちへの哀悼よりもむしろ、この件により韓国人の肩身が狭くなるという危惧を吐露する報道が多かったのは、「韓国人は常に自分達が被害者であると考える」という偏見に合致しております。
ただしこれについては、韓国メディアは、という限定をすべきでありましょう。
わが国のメディアを鑑みれば、メディアが即ち国民の意識の代弁者ではないことは明らかだからであります。
日本国民の皆様。
偏見とは、的確に認識し活用すれば、かように役立つものなのであります。
おわかりいただけますでしょうか、これまでの「偏見を排除する」という発想がいかに誤ったものであるか。
偏見とは、排除するのではなく、活用すべきものなのであります。
私は、偏見の最大の理解者、(´・ω・`)首相であります。
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